昭和45年11月24日 朝の御理解



 御神訓 一、「不浄のある時は先に断りおいて願いあることを頼めよ。」

 不浄と。不浄を感じ入るというは事です、ね。自分が不浄を感じる時には、その事を先に断りをおいて頼め。するとなら断ればそれを聞いて下さるという事になるですね。ですからね、実を言うたら、そんな簡単な事でおかげ頂けるという事はおかしいと。ね。自分の心に不浄を感じる時にねすいませんと、今日はこんなに不浄がありますからとたったそれ、それを言うただけぐらいで、不浄が祓われるものであろうかと。
 けれども、願いある事を頼めとこう仰っておられるのですから。頼めというからには、聞いてやろうという、姿勢を神様取っておられる訳ですよね。そこでね、本当の事を言うと、本来、不浄というものはないという事です。ね、例えば、俗に黒不浄とか、赤不浄とかといったような事を申しますね。まあ、人が死ぬるといったような事を、大変に縁起でもない事だと。ね、もう、亡骸そのものは、もう不浄のものとして、ね。葬式に遭うことすら不浄に、清らかなものではないとしてある、いう考え方。ね、
 だから家ん中に、まだ言うなら何て言うんですかね。生仏さんがござる間は、高神様なんかにはお参りは出けない、鳥居はくぐって潜られないと言う様な事を、言うておりますね日本人は。または女の赤不浄なんかの時には、もうお神様には御無礼しなきゃ、高神様には参られんと言った様な事を、それを身の不浄という風に考えておりますですね。けども天地の親神様がね。
 そう言う様な事を不浄となろと、決め付けておられるはずがないですね実際は。ね。そこで例えば神社仏閣に参りましても、なら教会に参りましても、聖上盤というのがありますね、お手洗いの事を聖上盤と。どんなに例えば汚いものがあってもですね、例えば手が汚れておるなら、それを洗い清めると。もちろん、手を洗うことでありますまい。自分の心のいわば不浄を洗い清める。
 だから聖上盤とこう呼びます。ただ洗ったぐらいでその不浄が洗い落とされるというはずはない。けれども例えば冷水をかかるとかね。清らかな水で体を拭き清めるとか。または、聖上盤で手を洗ったり致しますとです、何とはなしに清められたような気がする。その清められたような気がする、その心が願われる心であり、おかげを受けて行く心なんですよ。本来不浄というものはないんだと本当に悟れたら、ね。
 昨日私はあの新聞見よったら、何とかおおたく宗一か何かという評論家がおられましたですね有名な。もう毒舌で非常に有名な人でした。あれは大でした?あ、大宅壮一ですか。ね。あれはあれちょっと見せて、あの読ませて頂いたら、とにかく3ヶ月も頭を摘まないそうですね。もう全然歯なんか磨いた事ない、なかったそうですよ。もう大変言うならば変わった人であったと。
 けどもね、ある意味で一つ達観しておられた人だと思いますね。それは、信仰とは別ですけれどね。それは、人間の例えば、五体、体といったようなものはね、だいたいは汚れてはならない、汚れるはずがない。神様と同じなんだ。それを、私どもはやはり、ね、汚れたものが付きますと、それを不浄とこう言う。ね。お便所なんか行きましたら、必ず手を洗う。それが、排泄物が汚いものだと。
 べつに手についた訳でもないけれども、やはり、排泄物が汚いものだと思うておるから手を洗う。それが、汚いものではないんだと、清らかなものであると思うたら、清らかなものなんですね。問題はね、自分の心が、ね、不浄に感じたり、清らかに感じたりするだけのこと。ね。そこで、私どもはなかなか、そんな達観が出けません。これは私ども、これは、もう昔から私はあの、商売を致しております。商売。
 必ず口を濯いで手を必ず洗って外へ出ました。出る時には。ね、それがいつ神様と拝まなければならない事があるか分からないと思いますから、いつでも清めとかなければという気持ちなんです。口も濯いどく必ず出掛けには、手、口を濯いで外出しました。衛生的、そんな事じゃないです。大体私はふぞろくかほうですけれども、神様にいつ向かわなければ分からないから、もうこれだけはもう必ず実行しました。
 心掛けですね。お祭りが始まる前に、いわゆるその、御祓いを受けますよね。本当にあの、しでのさやぎの、本当に何か、神々しいとうか、爽やかというかね。さっさっさっと、こう祓うて頂いたら、本当に自分の身も心も祓うて頂いたような気が致しましょうが。ね。その祓うて頂いたような気がする、その事が、その心がおかげを受けるのですよ。ね。ですから、やはり受けなければいけません。お月次のお参り、お祓いも受けんなりにお祭りを拝むというような事では、不精進ですね。
 けれども、貴方がそれほどに達観しておられれば、また別です。本来、不浄というものはないんだと。ところが、私どもはそういう訳にはいかん。やはり、清めた上にも清めさせてもろうて、ね、清浄なものを上からまとうて。その上、お祓いを受けさせて頂いて、いよいよ心が清々しい、神に向かう心が出けるのです。だから、見識じゃないです。そういう心の状態に導いて頂けれる、一つのやはり方法です。
 けれども、本来は不浄はないのだと。ね。だんだん、お互い、信心によってです、そこんところが、本当に分かって来るおかげを頂く時にです、いつでも願えれる。いつでも聞いて頂けれるという、神様に対する願いの姿勢といったようなものが、いつでも出けておるという事になりましょう。ね。不浄のある時には、先に断りをおいて願いある事を頼め。だから、私どもがやはり不浄を感ずるわけです。ね。
 清き所も、汚き所も、天地の神がお守りあるぞと。頼む心にへだてなく祈れなどというような御教えもそこに出て来る訳ですね。天地の親神様は、清いところも汚いところも隔てがないお守りを下さってある。いわゆる、天地の親神様の目からは、清いも、または汚きもないという事なんです。天地の親神様の分身である人間ですから、本当を言うたら、人間から見てもです、清き所も汚き所もないのが本当なのですけれども、やはり、私どもは一つの感覚というかね。
 うん。清く感じたり、汚く感じたりする訳です。ところがです、例えば人間を一つ見る目でもです、もう、実にあいつは汚い奴だなと、こう思うでしょう。人間が、ね。特に、その物欲とか金銭欲とかね、食欲とか。または、性欲とかといったようなものが、むきに出される時です。ああ、汚い奴ちゃなあ、あいつはと思いましょう。だから、その思うた者自身が、汚れるわけなんです。汚いとそこに見てる。ね。
 ああ、鶴亀、鶴亀という訳なんです、だから。自分で自分の心を祓おうとする訳なんです。縁起でもないものを見ると、鶴亀、鶴亀とこう言いよる。ね、ですから、人間本来のその姿そのものがですね、美しいものだと。例えて言うと、あいつは汚い奴じゃなと思うた時にです。ね。あれが汚いのじゃない、私が汚いんだと、例えば分からせてもらう。自分自身が汚いから、汚いところが見えるんだと、というような思い方は、その汚いという、いわば不浄なものを祓うた事になりますね。
 汚いと言やあ、人間の心ぐらい汚いものはないと言われております。また、事実汚いと思う。けれども、そこんところをです、汚いものではないのだと。これは、おかげを頂いておる印だと悟れた時に、もうそれは汚いもんじゃないんです。ね。食べた上にも食べようとする。与えられた上にも、また欲しいと思う。言うなれば、人間の本能である。ね、その本能そのものがです、汚なかろうはずがない。ね。
 欲しいと思わせて頂いておるのである。ね。だから、そのこと事態が有り難いなあ。例えば、ここに食べ物を、今腹いっぱい食べたところが、またそこに美味しいものが出て来た。また、一つつまんでみたい。まあ、何と汚い、卑しい自分であろうかと思えば、汚い、卑しい私である。ただし、今度はどうでしょう。ね、胃が悪かったり、体が悪かったりしても、それこそ、それを一つ食べようとする食欲すら起こらない。
 いわば、食べえられない。ね。不健康であるなら、そうであろうけれども、健康のおかげを頂いておるおかげでです、食べた上にも食べれるという事は、まあ、何と有り難い事かと頂けた時に、もうそれが卑しいものでもなからなければ、汚いものでもない訳です。有り難いなという事になるんです。ね。なるも、ならないも、いわばわが心という事が言えましょう。おかげのあるも、なきもわが心である。
 成就する、成就しないはわが心であるね。そこでです、私どもがね、そういうわが心。ね。いわば、成就して行く心。そういう心をなら、理屈を聞きますとですよね、ああ、そげなもんかと。本来、不浄とはないもんだと。そこで、こういう汚い心が起こっておるなら汚い心ではないのだ、有り難いのだと、例えば理屈で分かって、そういう思い込みをしたからと言うて、なら、おかげに繋がるという事ではないのです。ね。
 だからそこにやっぱり一分はですね汚い自分、卑しい私というものを分からせてもろうて、本気にその汚い心に取り組んで、信心は日々の改まりが第一、信心とは本心の玉を磨くものぞやとしてです、ね、磨く事に勤め清まって行く事に精進させて頂くということ。ね。そこから不浄を感じんで済む私。そこから素直な心で、ね、詫びる。例えばここにあります不浄のある時には、先に断りをおいて願いある事を頼めと仰るようにです、それを素直に、自分のその汚いところを汚いものとしてです。
 そこん所を詫びて行くという事によってです、その詫びが許されたという感じがする時に、心が清められておる、ほどしのいわばお詫びでなからなければならんです。先に断りを置いてというのは、自分の心が清められたと思われるほどしのものでなかな。ただ願いが時には自分の不浄のある時には、先に断りをおいてと仰る事はただ口ですいません、こうして汚れておりますからお願いしますと言う様な事じゃいかん。
 断った事によって言うなら詫びた事によって、その詫びが許されたというその心なんです。ね、その心がいわば成就という事になって来る。ね。神様に願われる姿勢というはそれなんです。ですからやっぱしいっぱし清まらせて頂こうということ。ね、これはまあ私のならこれはもう、昔からの心掛けとしてです、いつ自転車に乗って行きよっても自転車の上でも、はあそこでちょっと飛び降りて。
 金光様と願わなければならない事が何時あるやら、起こるやら分からないから心掛けとして、出掛けには必ず口は濯いで行く手は清めて行く。これは私の心掛け信心させて頂く。ね。お参りをさせて頂いていわゆる聖上盤で、自分の口を濯いだり手を洗ったりする時に、手だけじゃない口だけじゃない。自分の心も清まれよという願いを持って、あの手洗いのお水を頂く。そういうおかげを頂く頂く時です自分の心が、いわゆる清まったという気がする。そういう心で神様へ向かう。ね。
 本来神様が作りなさった、例えば自動車なら自動車がです、そんなに不浄のあるはずがない。それでもやはりこう、自動車を買わせて頂いたと言えば、ね、お祓いを受けますと、ね、いわゆる神様からお祓いを受けたという心が、いわば強くなる。お祓いを受けておるという、清々しいとか、ね、有り難いとかという気持ちがそこに得られる。ね。本来はそんな祓い清めてもらわなければならないようなものはない。ね。
 だからと言うてです、ね、もう、お祓いも受けんでよかというのは、あまりの事であって、ね。ただ、理屈はそうだからと、例えば割り切ったのではなくて、ね、厳密に言うて、私どもの心の中におかげが受けたい。けども自分のような汚い者ではおかげが受けられない。そういうようなものが、やはりいつも心の中にある。ね、そこで、やはりお祓いは受けたが良いという事になる。ね。
 改まった上にも改まり、清まった上にも清まらせてもろうてね、いう、その精進をさせて頂いてからの、もう先の先なんだ。ね。いわゆる、本来、不浄というものはないものだと。ね。あるものは、有り難いものだけなんだと。ね。それを、先ほど、例えば食欲なら食欲という事で申しますとです、ああ、自分ちゃ何ちゅう卑しい、汚い男じゃろうかと。まあ、私は思いますかね。
 私は、だいたいが卑しいんです。食べた上にも食べた物を食べにゃ、美味しい物好きなんです。ね。けれどもね、それがこなせれるという事。それが、頂こうと思や頂けるということ。百味の御食と思われるような物が目の前にあっても、食欲さえ起こらないという人もあろうのにです。私は、それを百味の御食として頂けれる、いわば五体の調子と、ね、それを頂けれるだけのです、ものを頂いておるという事は、何と有り難い事だろうかというところにです、私は清められる。
 その為に、体を犯されるような事もないほどしのおかげが頂ける。はあ先生がガブガブ食べよるけん、俺もちと食べようと。それで夕べは食べすぎたと言うてから、べすべす言わにゃならん。私はいつもです、もう私はお夜食なんかしてから、朝これが障った試しがない。それは私は今日思うのにですね、いわばそれを不浄とせずに、有り難いもんとして頂いておるからではなかろうかと思うです。私はいつも言うでしょうが。はあ親先生、そげん貴方、休みがけにあがんなさったらち皆が心配し下さるけれども。
 頂いて明くる日です、夕べ食べすぎたけんで、どうも今朝は気分の悪いちゅう事は絶対ないです、おかげを頂いてるです。それは、ただ体が強いからだけではなくてです、それを不浄なものとして頂いていない。私はそう、ハッキリは、まあ、あの、言えませんでしたけど、今日はそれがハッキリ言えるような気がする、この御理解を頂きながら。ははあ、私の場合は、不浄じゃないのだと。有り難いのだと。有り難いで受けておるから、不浄ない、清まっておる。
 だから、明くる日に持ち越す事もなからなければ、障ることもないおかげを受けておるんだという事になるのじゃないでしょうか。これは、食べ物だけの事ではありません。全ての事がそうです。ね。不浄のある時には、だから、先に断りをおいてと教えておられますけれども。本来、不浄はないものだと分からせて頂くところから、何を食べても、何をさせて頂いても、体に障るような事のないおかげが頂かれる。
 その過程としてですね、過程として、私どもがいつも、祓い清めて頂けれる気持ちを作る精進をするのです。ね。だから、いつ、そういう事になって来たのか自分にも気が付きませんけれどもです、段々だんだん、そこんにきは、いわば体験ですよねえ。私は今日はこの事についてから、本当に、もっともっと大変素晴らしい事をね、心に描きながら実はお話をしてるんですけれども。まあ、それが、言葉に出せません。だから、例えば食物なら食物の事で例を取りましたけれど。
 自分が汚いと感ずるところに、汚い、いわば不浄のものになるのであり、清らかなものと感じたら、それは清らかなもの。ね。有り難いものと感じたら、それは有り難いものになる。ね。あいつは悪い奴だとか、あれは汚い奴だとかと、例えば対人間の場合でもです、悪い奴とか汚いやつ、そのものが自分の心の中にあるからなのだ、と気付かせて頂いて、詫びればそこから、いわば次の願う姿勢が生まれて来る。
 あいつは汚い奴だな、悪い奴だなと思いながら、いわば神様に向かうても、その心は汚れておる。その心は不浄である。ね。汚いと見ておるですから。もう、それこそ鶴亀、鶴亀が必要なんだ、そこへ。ね。けれどもです、ね、例えば私の周囲には汚い者もおらなければ、悪い奴もおらん。皆、善人に見える。いや、仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと感じれれる。そこに、私自身が神様なのです。いかに、だからね、これ自身が神様のようにならなければいけないかという事が分かりますよね。ね。
 そこに至って来る時にです、なるほど、不浄は本来ないものだと分からせて頂くんだと思いますね。私はその事がですね、今度幹三郎の病気を通して、もう実に実感をする事があるんです。本来、不浄というものはないもんだと。ね。もう、それを実際、私は自分の体験からね、それを、その強調し得るおかげを、今度は頂いたと自分で思うております。ね。先に断りを置かんで良いのだ。ね。けれども、それを感ずる時には、だから、先に断りを置いてと、こう言う。素直にその、こんな汚い心でと。
 それを詫びる。しかも、詫びただけじゃいかん、お願いしますと言うて、すぐ次にお願いしますが、ここには出て来るけれども。実際はです、ね、詫びれば許してやりたいのが親心と仰る。はあ、許されたなと、自分で感じる、その心が清められたのですから、そこから願わにゃいかんです。ね。実にデリケートですよね。デリケートと言えば、これほど、いわばデリケートなものはない。神様に向かう心ほどデリケートなものはない。ね。大変な事ですよね。
 竹内先生が金光様に、幹三郎の事をお届けをされた。肉腫ガンでございますと。どうぞ、おかげを頂きますようにと言うてお願いをした時に、金光様が、内腫ですか?と仰った。ね。だから、それをまた聞きにした私が、ああ、内腫だと、こう思えたんです。これは肉腫じゃないと、内腫だと、こう思えたと。ね。そこにです、その思う心が強ければ強いほど、それは、内腫になってしまう。ね。心がそれによって清まってしまう。信ずるという心は、清まるところからしか生まれて来ない。
 もうだから、実にもう微妙な。だから、はあ、親先生もあげんち言うけん、なら、私もいっちょ内腫と思う。これは、まあ、他の事の場合でもですよね。と言うて思えないところに、日頃の精進があることが分かるでしょうが。ね、んなら、竹内先生も、それは感じきっておられない。ただ、そん時の金光様にお取次ぎを願われた時の模様を、私には説明されただけであった。こうやってお届けさせてもらいましたら、金光様はこういう風に仰る。先日、竹内先生が見えた時に、その事を申しました。
 いわゆる、竹内先生の感度と私の感度が違う。ね。竹内先生は見間違い聞き間違いで金光様がああ仰ったとこう言う。頂いておられる。私はそれを神乍だと頂いておる。これは肉腫じゃないこれは内腫だと。ね、いう風にこう頂ける頂けれるという事なんです。ね。そこにはだから私は日頃の精進が、私は違うとこう思う。ね。清まる事に改まって行く事に精進させてもろうて。なおかつそれでも汚い自分である。
 浅ましい自分であると気付かせてもろうて、そこんところを詫びて詫びて、詫び抜かせて頂くいわば精進が成されて行く。それが清められたと同じ状態にならせて頂く。その清まった心で人を見る清まった心で問題を見る、清まった心で事に処して行くという事が、ね、いかに素晴らしいおかげを生んで行くか。いわゆる願いある事を頼めというその願いが、神様が頼まれて下さるというおかげになって来るんです。ね。
 ところがお互いの場合は、詫びても許されないといったような気持ちでです、願うもんですから、ね。それが成就になるはずがない訳ですね。まあ極端に申しますと。その願いあるその事を頼んでもです、ね、まだ汚れとる不浄だ。それではだから成就しないという事になる。四神様が、ね、道の信心で言う不浄とは、成就しない事ぞと教えられておられる。もうね、いわゆる不浄というものは本来ないのだぞと。
 もう言うなら喝破しておられる訳ですよね。お道で言うもんには、不浄というものはないものだというものが、そのお言葉の裏に感じられる。本来お道では不浄というものはないのだ。不浄とは成就しない事を不浄と言うのじゃと。言うなら願いある事を頼めと。願いある事を頼んだらそこに成就する時には、もう自分が不浄のない心で願っておるから、成就して行くのだと。
 そこで願っても願っても成就しないならば、自分自身の心の中に、まだ不浄ありとしてです、そこに取り組んで、清まって行かなければならない。いわば、改まって行かにゃん、磨いて行かんならんという事が分かりますですね。今日は本来不浄とはないものだという事にしてのお話をさせて頂いたつもりですね。ああそうかんなら不浄はないから、今日からはもう便所に行ったっちゃ、手も洗わんぞと言った様な事で神様に向かうちゃいけないですよ。ね。
 そこにきゃ、どうぞ間違えんようにして下さい。そしていわばなるほど、本来人間の不浄というものはないものだと、本当に分からせて頂けれる、信心がそこに求められる訳であります。ね。そこにいわゆる、成就と神願成就というか、ね。私どもの願いの成就というか。いわゆる、神様の願い、私どもの願いが、ね、一つになって成就して行くところのおかげの世界がある訳なんですね。
   どうぞ。